白井貴子 (バレーボール)
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基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1952年7月18日(72歳) | ||||||||||||||||||||||||||
出身地 | 岡山県岡山市 | ||||||||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Takako Shirai | ||||||||||||||||||||||||||
身長 | 180cm[1] | ||||||||||||||||||||||||||
選手情報 | |||||||||||||||||||||||||||
愛称 | ビッグ | ||||||||||||||||||||||||||
ポジション | レフト | ||||||||||||||||||||||||||
ブロック | |||||||||||||||||||||||||||
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白井 貴子(しらい たかこ、現姓:高木、1952年7月18日 - )は、元女子バレーボール選手。
1970年代を代表する大型エースアタッカーで、1972年ミュンヘン五輪で銀メダル、1976年モントリオール五輪では金メダルを獲得した。
来歴
[編集]岡山県岡山市出身。出身地を南北朝鮮に分けた両親のもとに生まれ、中学2年の時にバレーを始める。
1968年に片山女子高校を中退後、倉紡倉敷に入社。18歳の時に同チームの白井省治監督の養女となり日本国籍を取得した。
1972年、ミュンヘン五輪で銀メダルを獲得後、現役を引退し、1973年1月に勤務先の倉紡倉敷を退社した。しかし同年6月に現役に復帰を発表し、8月に日立に入社した。
打倒ソ連へ向け、距離の長いBクイック「ひかり攻撃」を、セッター松田紀子と共に猛特訓の末に完成させる[2][3]。
1976年、モントリオール五輪の決勝でソ連をストレートで下し、金メダルを獲得。
モントリオール五輪後、現役を引退し岡山に帰省。1976年10月に婚約発表し、12月に正式に日立を退社した。しかし年内には婚約を解消した。
1977年1月末に上京、日立武蔵のコーチとして後輩の指導にあたった。その後現役復帰し同年ワールドカップに出場し優勝した。
1978年に現役を引退。国土計画とダイエーからチーム加入の勧誘があったが、限界を感じて断った[4]。
2000年、日本人女性で初めてバレーボール殿堂入りを果たした。
80年代にはテレビ朝日の番組『ビートたけしのスポーツ大将』に、バレーボールコーナーの助っ人として出演、往年のプレーを披露した。現在は、杉並区教育委員、NPO法人バレーボール・モントリオール会代表理事。
球歴
[編集]受賞歴
[編集]- 1970年 - 第4回日本リーグ ベスト6
- 1973年 - 第7回日本リーグ ベスト6
- 1974年 - 第8回日本リーグ 敢闘賞、サーブ賞、ベスト6
- 1975年 - 第9回日本リーグ 最高殊勲選手賞、スパイク賞、ベスト6
- 1977年 - 第11回日本リーグ 最高殊勲選手賞、スパイク賞、レシーブ賞、ベスト6
- 2007年 - プレミアリーグ Vリーグ栄誉賞
所属チーム
[編集]テレビドラマ出演
[編集]脚注
[編集]- ^ Takako Shirai sports-reference.com
- ^ “月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識2004年8月号 > オリンピックの歴史に燦然と輝くキーパーソンからキーワード > 大松博文”. 2007年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月29日閲覧。
- ^ “中国新聞 - 北京五輪特集 <10>白井貴子 「ひかり攻撃」ソ連倒す”. 2009年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月29日閲覧。
- ^ 【あの時・白井貴子モントリオール金への軌跡】(5)ソ連のセッター交代に「これで勝てる」 アーカイブ 2017年1月21日 - ウェイバックマシン - あの時:スポーツ報知、2017年1月16日
外部リンク
[編集]- ワールドカップ レジェンドインタビュー - ウェイバックマシン(2013年3月26日アーカイブ分)
- 日本テレビ - ヒーローが見た夢#68 - ウェイバックマシン(2016年3月6日アーカイブ分)
- NPO法人 バレーボール・モントリオール会